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まつうら小児科的・・・ |
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2023年4月現在 |
【経歴】
1955年(昭和30年)徳島県池田町で2卵生双生児の第2子(三男)として生まれる。生下時体重1600gの極小未熟児だったが奇跡的に自力で命をつなぐことができた。
地元の池田小学校・中学校に通う。東京オリンピックで体操が脚光を浴びた影響で小学4年より器械体操をはじめる。中学からはブラスバンド部に所属。クラリネットとチューバを担当。中学3年間の成績はほぼオール「5」で「池田の神童」と呼ばれる。
1970年高校入学を期に鴨島町(現吉野川市)に移住し、当時県下随一の進学校であった県立城南高校に入学。入学時の成績順位は450人中150番・・・己の実力を知って吹っ切れたあとは拓郎にのめり込み、自分で作詞作曲した「かあちゃんの唄」で地元新聞社主催の第1回「あなたもシンガーソングライター」でグランプリ受賞。ヤマハポプコンの徳島予選大会でその曲を歌って3位となったが決勝大会には進めなかった。高校の部活は1・2年は演劇部に籍を置き、3年になって落語研究会を自ら立ち上げ、初代「国士亭無双」として文化祭で人気を博した。翌春徳島大学医学部を受験したが案の定不合格となる。
1年間の浪人のあと1974年実質倍率20倍以上の愛媛大学医学部に合格。大学1年の前期の成績はオール「優」。夏休みにダスキンの訪問販売のバイトで売り上げトップ(月20万円)を記録。医学部辞めてダスキンへの就職を勧められる。他にも家庭教師と喫茶店のウェイター(大街道「こまどり」千舟町「フレンド」)のバイトに明け暮れる。教養学部の2年間は文京キャンパスで演劇に熱中し、専門学部の4年間は重信キャンパスで軽音楽部を創設し初代部長に就任。アルトサックス担当した。
6年間1度もビーコン(追試)受けることなく無事卒業し、1981年5月第71回医師国家試験に合格。同医学部小児科学教室に入局。
1982年5月旧東予市の公立周桑病院の小児科新設にともない、研修医2年目という異例の早さでひとり医長として派遣される。同時に同教室の研究生となり、小児循環器を専攻。心臓カテーテル検査と研究に8年間励む。
1983年3月道後にぎたつ会館で、文京キャンパス演劇部で知り合った女性と8年間の交際ののち結婚。のちに1男1女を儲ける。
初代松田教授退任に伴い、1990年12月大学に帰ることなく勤務地の近隣でまつうら小児科を開業。当時周桑医師会内では初めての小児科単科標榜医院であった。翌91年医学博士号(小児循環器)取得。
同年春長男の7歳の誕生日プレゼントにパグ犬が我が家にやって来た。2004年10月までの13年間、松浦家の一員としてたくさんの思い出を残し、今も天国で家族を見守ってくれている。
1992年趣味でカートを始める。国内B級ライセンス取得後、瀬戸内海カートシリーズに4年間参戦。ポールポジションをとることは何度かあったが、決勝ではクラッシュすることが多く、最高順位は2位であった。
2003年長年の夢であったJAZZベースを習うために松山のヤマハ教室に通い始める。
2010年2度目の挑戦で骨髄移植のドナー(提供者)となり、母校の愛大付属病院で関東在住の40代女性に骨髄を提供した。
2015年第54回愛媛マラソンに2回目の挑戦で4時間35分で初完走。その後も2年続けて完走を果たしたが、「サブ4」を達成できないまま抽選に外れ続け、挙句ギックリ腰に見舞われ、コロナ禍もあり挑戦は終了。
2016年コントラバス奏者としてオペラえひめの管弦楽部門に入る。2020年を最後にコロナ禍で中断中。
2017年ヤマハ講師の定年退職を機にヤマハを卒業し、ピアノの生徒であったIさんとデユオ「DUO Pentatonics」を結成。県医師会主催の音楽祭や県内在住の有志による「JAZZ切磋琢磨」などで演奏活動している。
2019年2月開院以来29年間片腕として苦労を共にしてきたナースを脳腫瘍で失う。
2020年12月開院30周年を迎える。
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【目次】
1.ロゴはどうやってできたのか?
2.野立て看板の変遷
3.パクられたぁ!?
4.まつうら小児科の”はじめて”物語
5.九死に一生を得たお話
6.私の愛車遍歴
7.ちょっと自慢話をします
8.医師会報・愛媛新聞への投稿集
9.主な学会発表
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1.ロゴはどうやってできたのか?
まつうら小児科は開業当初より、息子が3歳のときに描いた私の顔を参考にして作成した似顔絵をトレードマークにしており、その下に「pediatrix」という横文字を添えました。これまで、不思議とどなたからも「どういう意味なの?」と聞かれたことがなかったので、お知らせしておきます。
「小児科学」は英語でpediatricsと綴り「ペディアトリクス」と読みます。これを「pediatri
+ cs」に分けて後半の「cs」を「x」に差し替えただけです。英語圏ではよくやる手法で「https://www.pediatrix.com/」というWebサイトも存在しています。開院当初、知らずに同名でWebサイトを開設しようとしたら、米国のpediatrix社からクレームがはいり、やむなく断念しました。その後は商標登録も出来ないまま、こっそり看板と診察券に使用しています。
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2.野立て看板の変遷
左から初代・2代目・3代目

↑これは現在唯一残っている4代目!!
周越農道「実報寺交差点」にあります。
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3.パクられたぁ!?
1990年の開業当時、医院の野立て看板にイラストを入れることは許されていなかったのですが、息子が描いた私の似顔絵をこっそり載せたところ、役所からのクレームもなく現在に至っています。
その看板のデザインが・・・!?
開業からしばらくして、松山のある耳鼻咽喉科クリニックの看板に院長の似顔絵が描かれているのを発見!!また、今治市の眼科クリニックが当院の2代目の看板のデザインに寄せた、横に3色の野立て看板を建てているのを発見!!。
どちらの看板も現在、旧北条市の196号線沿いと今治市のイオンの近くに建っていますので、興味のある方は探してみてください。
さらに、パクリ疑惑をもう1件。
当医院の入口にある赤い門柱は、野立て看板同様まつうら小児科を特徴付けるもうひとつの意匠として採用したものですが、丹原町の産業道路沿いにあった喫茶店(現在は移転)の門柱がいつの間にか真っ赤に塗られているのをまたまた発見!!
開業に際し、コンクリート打ちっぱなしの建物の外観をはじめ、広告全般や診察券から院内デザインまですべて自分自身で「まつうら小児科」をブランディングしましたので、真似をされるということはある意味名誉なことであります。
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4.まつうら小児科の”はじめて”物語
「医者らしくない医者」と「医院らしくない医院」をモットーに開業しましたので、看板以外にも色々とチャレンジングなことにトライしました。その結果、所属していた旧周桑医師会(旧東予市・丹原町・小松町)で「初めて」のことが沢山ありました。
ここでは、その代表的な事例をご紹介します。
@内科・小児科でなく、小児科単科だけを標榜する医院名を採用した。
小児科も標榜する内科系の開業医は沢山存在しましたが、小児しか診ないクリニックは当時初めてだった。
A院内を土足OKとし、完全バリアフリーを実現。面倒な靴の履き替えが不要なため、またスリッパからも解方され衛生面からも母親に喜ばれた。
B開業当時はまだまだだった院内完全禁煙を実施。小児科であったことが幸いし、スムーズに受け入れられた。
Cこども専用のトイレ室をおとな用とは別に設置。便器も子供用に小さく可愛くした。
D待合室を円形にし、受付・隔離室・診察室・トイレへのアクセスを容易にした。
こどもたちもぐるぐる走り回るようになった。
E全館床暖房を採用しクリーンな環境を提供。
F院外処方箋をいち早く採用し、待ち時間が短縮するなど利便性が向上。
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