東日本大震災に愛媛県医師会救護班として参加してみて

                           愛媛県医師会常任理事         窪田 理(H23.3.30記)

はじめに

東北地方太平洋沖地震(M 9.0)は2011年(平成23年)3月11日14時46分、日本の太平洋三陸沖を震源地として発生した、日本の有史上最大規模の地震であり、最大震度としては宮城県栗原市で震度7を記録しているが、地震の揺れそのものによる被害より、直後に発生した、場所により17Mを超える津波による被害と、福島第一原子力発電所による放射線汚染が震災の特徴と言える。
死亡:1万1232人、家族らから届け出があった行方不明者は1万6361人、計2万7593人、17都県2065カ所の避難所で暮らす人は17万4367人。建物被害は全壊・流失が9都県で1万8699戸。(平成23年3月30日午前10時現在)

本報告は愛媛県の要請を受け、またJMATとして平成23年3月19日より3月21日(被災後8日目-10目)まで宮城県石巻市渡波小学校へ派遣された活動を記載したものである。現場は関係各位の努力により日々状況が改善しており、今回の報告はあくまで過渡期の混迷している状態とご理解いただいた上で、お読みいただきたい。

準備段階-目的地にたどりつくまで:3/19まで
 3/15、JMAT(日本医師会)に3/19-3/22まで救護班として参加する旨を連絡すると同時に準備を始めた。この時点ではJMATによる保障制度の話はなく、目的地も南陸前であろうと言われていたが、3/17に目的地が石巻市へと決定した。野宿の準備をして車で松本(県医師会事務局)さんが3/18午後に松山を出発。使用車両に関してはレンタカー(エスティマ)1台を使用。出発後、3/18に愛媛県医師会のほうで宿泊施設の確保ができ、窪田と安藤・石田(ナース)さんは3/19、朝一番の空路羽田へ向かった。

持参品一覧:

 ●医薬品関係   
現地で必要だったもの  クラビット(250),クラリス,PL,カロナール(200),ノルバスクOD(5),ホクナリンテープ(2),アマリール(1),トクレス,ムコダイン,ナウゼリン,ロペミン,コリオパン(10),ビオフェルミンR,ムコスタ,ガスターD(10),ニトロペン,ハルシオン0.25,モーラステープ20mg,テオドール(100),サルタノールエア,メリスロン(6),ロキソニン,ニポラジン(3)
ソリタT3 500ml,ソリタT3 200ml、点滴ルートセット,翼状針
インフルエンザキット、血糖測定器
タミフル,リレンザ
あまり必要でなかったもの  レギュラーインシュリン、,バファリン、アダラート(5)
インシュリンは必要であったがタイプが異なるため未使用
 ●携行品 当然ながら宿泊施設が確保されているかどうかで大きく異なる。
 必要品 現地の地図(詳細なものが必要),携帯電話充電器,携帯電話充電器(車用),マスク,ごみ袋,ラップ
タオル,ビニール手袋,カットバン・消毒液,長靴,水,,鍋・,携帯ラジオ(電池式),懐中電灯,電池,デジタルカメラ,ロープ,軍手,はさみ,ヘルメット,給油ポンプ,ガソリン携行缶(20L)×3,避難所用簡易カルテ,バインダー,スケッチブック,油性マジック,布テープ,ファイル(防水),ボールペン,スリッパ,,カイロ,アルミシート,レインコート、衣類 
宿舎が確保されていると不要品 ウエットティッシュ,トイレットペーパー,レトルトパック,割り箸,紙コップ,缶詰,やかん,シャベル,紙皿,アルミホイル,ガスコンロ,ガスボンベ,毛布,寝袋、水,カップ麺、シガーソケット(DC→AC)

出発 1日目 3/11


緊急車両のマーク
松本さんと羽田で朝9時半ごろ合流した後、首都高速から東北道経由で宮城県石巻市を目指す。
東北道は緊急車両扱いでフリーパス。緊急車両には証明書が必要であり、これは松山市の東署で取得した。この証明書がなければ通行禁止であったが、高速道ICでの発行も認めている模様。松山から東京までは特に恩典はなかったとのこと。
PA・SAはほぼ通常通り。場所によってはガラガラ状態。ガソリン補給も満タン可。店舗も一部を除き開いており快適なドライブ様。が、被災地に近づくにつれ、だんだん状況が変わってくる。トイレが仮設になり、店舗はすべて閉鎖状態に。この段階で自販機も売り切れ続出。最終ガソリン補給地は菅生SAで行なうも金額制限があった。以降、ガソリンスタンドでの補給は事実上不可能になる。
途中のPAで自衛隊の救護班と何度もで出くわした。基本的に水やガソリンなど自給自足体制で支援が可能な物資も持参しているようで大部隊を編成している。また磨き上げられた東京ナンバーの黒塗りのハイヤーも数台見かけたが、どんな人が乗っているかまでは確認できなかった。 
 
PAで休憩中の補給部隊
東北道・仙台の手前から、ナビが仙台市湾岸のおそらく石巻市まで近道であろう方向に車を誘導。指示通りにしたがうと仙台の海岸沿い(若林地区)に達した。この地区は津波で田畑が冠水しており、水田状態。ところどころ水田の中に車が横たわっている状態。
やがて高速が閉鎖となり、ナビの指示通りには通行不能となり、一般道へ。ここから迷走状態が始まった。
ナビに頼ると継続して何度も高速(近道)ルートを表示するが行くとICがクローズ。地図の利用を開始。VICSは機能していない模様。
動いている車はほとんど緊急車両のみ。道路にガス欠の車や流されてきた車が散乱。途中まで行った段階で再びナビでルート検索に。やはり海岸道を指示。今度はとりあえずナビの指示に従ってみる。東松島手前までは順調に走行。一応、行き止まりの道には道路中央にポールが立っているが、車の抜ける間隔はあるので、そのまま入ってみる。その後、道が突然、海面になる。周囲は日没が早いせいで、4時台にも関わらず暗くなり不安感が増大する。仕切り直しということで仙台に戻るルート検索をして、途中まで戻り、再度、地図で確認。ナビ利用で石巻市の入り口までなんとかたどり着く。で、再びルートをロスト。気がつくと石巻の合同庁舎前、建物は倒壊し進路を塞いでいる。
外灯も含め町の灯りは無い。ここで宮城県医師会に電話で尋ねるが、電波状況が不良でよくわからない。地名を教えていただいても、独特の漢字表記で地図からは判読困難。しかし橋を渡らなければならないことだけは判明した。
本来3本橋がかかっている。
指示ではどれでもよいとのことであったが、現地に行くと2本は合同庁舎前を通るルート。路上に小型船舶が道を塞いでいたり、家屋や電柱が倒れかかっていたり極めて危険。たまたま歩いていた地元の人に道を尋ねると、合同庁舎前より先のルートの橋は津波で通行不能とのこと。地図には詳細図がなく、ルート検索のやり直しを数回重ねることで残る1本の橋に到達。
停電でまったく周囲の状況は不明。ただこの道沿いは倒壊家屋はまだ少ない感じ。橋をわたってトンネルを抜けると状況は一変。車のライトで見える道路周囲の家屋らしきものほとんどなく、路上に瓦礫の山。 
暗闇の中、散乱している「もの」を避けながら、とりあえず目的地の渡波(わたのは)小学校へ向う。異臭(海岸の匂い+別の何か)あり。周囲の状況は確認できず。注意しながら走行し、目的地の学校には午後7時頃到着。そこで島根県医師会の救護班・千葉のボランティアの医師2名、日赤のDMAT隊員と会う。簡単な打ち合わせの後、翌日9時に集合と言うことで、現地にきていた県の職員に校内を案内してもらう。全体で1200名が校舎の2F3Fおよび体育館に収容されていた。
とりあえず体育館へ。折良く中部電力が非常用電源を修理中。案内されているうちに電気がつく。思わず拍手が。そこに200-300名が収容されていた。
診察室は校舎の1Fに。1Fは約1.5mの高さまで塩をかぶった状態でショートしているらしく停電のまま。この時間帯では診察不能と判断。携帯はAU、doccomoとも不通。水は十分あったが、人数的にいつまで持つかは判定困難。体感温度は愛媛の真冬並み。
宿舎のある登米(トメ)市へ。車(三陸自動車道)で約1時間の距離。途中自衛隊・警察の車両編成と何度かすれ違う。主に阪神・中国地区の車両の模様。
登米市のホテル周辺では一見、被災した様子がみえず。ホテルの近くで一件だけ空いていたお好み屋(広島風)で夕食を。登米市は物流は途絶えているようであるが、電気・ガス・水道完備。電話も通じた。ホテルでの食事はない。
1日の終了はほぼ11時。

診療 2日目 3/20

 
渡波小学校への道の途中
ホテルで夜間、地震1-2回とのこと。僕は寝ていて自覚なし
カップ麺で朝食を済まし、7時半出発9時に小学校へ。行程のうち、ほぼ3/4は自動車専用道路だが路面が波打っている。緊急車両のみ通過可能。入り口では警官が通過車両をチェック。登米市周辺は農村地帯。破壊された形跡はやはり見あたらず。津波の痕跡もない。ただし石仏等は倒れている。ナビ誘導で小学校へ。小学校周辺は太平洋戦争の写真でみる空爆された後の焼け野原に酷似。燃えてはいない。1階部分は倒壊、2階部分のみが残存の家多し。避難地では予想に反し、千葉からのボランティア医師(内科1名・外科1名)のみ。島根県救護班は他の避難地(中学校)へ配属された模様。9時から12時まで診察、約50名。この段階で持参の薬と補充と不足品に対応する必要性がでてきた。紹介しようにもガソリン・車両ともなかなか手配できず。
必要医薬品のチェック実施(便秘、眠剤の希望が多い。そのほか高血圧、糖尿病。抗がん剤等の希望もあり)。午前の状況から千葉の先生だけでも診察可能と判定し看護師を残し、(電話での意思疎通が困難なので)宮城県医師会へ。また給油可能と聞いていた多賀城の自衛隊駐屯地での給油が本当に可能か確認するために仙台方面へ外出することにした。
 渡波小学校外観  
渡波小学校校庭
 
渡波小学校校庭
 渡波小学校校庭、この中に2名の遺体を確認
 
消防署のサイレン塔 海の彼方に空母らしき船舶が
医者が来たと言うことで午前は比較的暇であったが、午後は周辺からも患者さんが集まった模様。午前午後で113名受診とのこと。点眼剤、花粉症の薬もニーズが出てきた。診察の合間に千葉の先生のお一人は宮城県水産高校のほうにも診察に行ったとの事。
仙台・多賀城へ出発直前に、校庭で2名遺体発見との連絡あり。状況より、収容には重機が必要と判断。警察医にみてもらうように責任者に報告。
責任者としては市の職員がいたり、いなかったり。基本的には避難所の中で一般のしっかりした人がリーダー役になっている。
 
無事に残っていた体育館
 
体育館の洪水の跡。中は奇跡的に無事
 
診察 赤い服の方は千葉のボランティア医師
 
診察室全景 暖房器具は当然なく、津波の浸水した痕跡あり。

   宮城県水産高校
宇和島水産高校と交流があるらしい。
駐車場の水は海水。満ち潮になると溜まるらしい。

仙台の宮城県医師会に於いてはちょうど届いた日医からの補給品目を確認。我々と同様、現場のニーズとの多少の不足がある感否めず。分散されて明日、石巻市医師会へ届くだろうとのこと。到達する時刻未定。こちらで得ている情報では、市医師会も被災しており届くだろうかとの懸念あり。市医師会の場所および道路の状況も不明。届けられるという医薬品の種類も量も不明とのこと。
#これに期待するのは、リスクが高いと判断。独自でニーズにあう薬剤を調達する方法を模索し、石巻日赤病院にお願いしてみるつもりで、電話番号を愛媛県医師会に問い合わせる。
多賀城の駐屯地へも実際に行ってみる。ここも被災。約1mの冠水。出発前に県のほうからここで県の救護班は給油できたとの情報あり。後続のために医師会でも補給可能かどうか確認の目的。一旦は補給不可と言われるも、門から出ようとしたところで呼び止められ給油可に。何でも状況によって変わるということ。県の要請で出向いているのが大きいと推測。 ひとまず20Lを確保。
で、渡波小学校へ向かう。再び道に迷うも何とか到達。途中、不安気なナース達よりTELあり。電話ができるところまで千葉の先生に車で乗せてきてもらっていたらしい。小学校に行き看護師の2人を乗せて宿舎へ。
カップヌードルよりはマシということで再びお好み焼きを食す。そのとき昼食をとっていなかったことを思い出す。
犯罪発生の噂を聞く。状況より信憑性は高いと思われる。


診療 3日目 3/21
前日と同様の日程で起床・出発。朝食はカップ麺。地震は何度かあった模様。
意を決し途中、車中から携帯で石巻日赤病院に必要薬品(前日に千葉の先生とナースで集計)の調達を電話でしてみる。調達OKとのこと。昼の時間帯(この間に炊き出しあり、患者さんが減る)に、石巻日赤病院へ。
(巨大、山陸自動車のすぐ横、ヘリポートあり)地下の薬局で約40分ほどで代用薬、同等効果薬等で埋め合わせしてくれた。中には抗がん剤、ワーファリン等あまり一般的とは思われない薬あり。希望薬品の中に麻薬系統の薬あり。これに関しては処方箋の管理が必要との薬剤師さんから指摘をうけ、該当薬品を除外。石巻日赤受診してもらうしかない。午後から診察。
午後からはDMATが応援に来てくれた。さすがプロ。極めて的確な動き。ただいつ来るのか現地では全く予想付かず、次回の派遣も現場ではどうなるかわからないとの事であった。こちらだけで一日計128人を診る。

 石巻日赤で調達した薬剤
アスベリン(20)、アフタゾロン軟膏、アムロジン、アレロック、アスベリン、ゲンタシン軟膏、クラビット点眼、ガスター10、クラビット250、グリセリン浣腸60、グリベック、クラリス、シベノール、セパゾン、テグレトールディオバン、デパス、ネオドパストン、ナウゼリン、プリンペラン注、プラビックス、プルセニド、バイアスピリン、フランドルテープ、マイザー軟膏、マグミット、メルカゾール、マイスリー、リザベン点眼、ロペミン、ラシックス、ラックB、ロキソニン、ワーファリン

翌日は日赤の救護班(おそらく愛媛県中)が来るとの宮城県医師会から連絡あり。ということで撤収を決める。その後、県中グループよりTELあり。聞いてないとのことで、情報伝達ができていない模様。しかし、千葉の先生も3/22はまだいてくれるし、薬剤も補給しているので誰か来ると信じ宮城県医師会には撤収する旨を報告。
診察中、何度か警報音あり。住民に尋ねても警報の意味を知らず。
校舎の屋上より通信試みるも、doccomo,AUとも不安定。アンテナは1本立っているが会話不能。海が見える。
はるか遠方に米軍の空母らしき陰影を確認。米軍基準で放射能汚染はないということと思われひとまず安心。しかし、また津波が来たら終わりかなと実感。石巻日赤に行く途中でみた徒歩の警察のグループがおそらく検案に来たと思われ、遺体の場所を示す目標が無くなっていた。周辺より炊き出し・薬希望の患者さんが来ており、ごった返している状況。日没とともに診療終了。
ホテルへ戻った後、最後と言うことで少し遠出をしてお好み焼き以外の店を探索。
幸いタンの専門店がありそこで食す。昼食はこの日も忘れていた。熊本の救護班と接触(この日到着した模様)。情報交換。


2日間の診療のまとめ

■性別受診者の割合

性別受診者数   人数 %   
 女性  127  55
 男性  97  44
 不明  9  2
 総数 233   100

■年齢別受診者の割合

 総数 233 不明 26
0〜9 15 7%
10〜19 8 4%
20〜29 8 4%
30〜39 12 6%
40〜49 21 10%
50〜59 25 12%
60〜69 64 31%
70〜79 34 16%
80〜89 17 8%
90〜99 3 1%

207 100%

0〜7未満 10 5%
小学校生 7〜12 9 4%
中学生 13〜15 1 0%
高校生 16〜18 2 1%

■疾患割合




感冒症状 64 25%

高血圧 45 17%
*震災前より、慢性疾患等(黄色)の診断あり薬が無くなった。もしくは、薬が足らなくなるのでほしいと来られた方 ⇒ 31%
嘔吐・下痢 33 13%
不眠 25 10%
けが 16 6%

便秘 13 5%
*便秘の方は、薬がないことで診察を受けなかった方や日赤診療チームへ行っていただいた方が数に入っていません。したがって、便秘の方の人数(%)は↑にだったと思います。
アトピー皮膚炎 11 4%
*診察後、石巻日赤病院の受診を勧めた方⇒3人
糖尿病 10 4%

花粉症 9 3%
喘息 5 2%
腰痛 4 2%
蜂窩織炎 3 1%
膀胱炎 3 1%

インフル 2 1%

逆流食道炎 2 1%

心疾患 2 1%

低体温 2 1%

熱傷 2 1%

白癬 2 1%

おむつかぶれ 1 0%

じゅくそう 1 0%

白内障のOP後 1 0%

甲状腺機能亢進症 1 0%

バルン交換 1 0%

胃痛 1 0%

ヘルペス 1 0%

胸膜炎 1 0%

261 100%

撤収 4日目 3/22 


朝7時半に出発。
途中ガソリンスタンドで給油中の車をみる。ガソリン補給可の情報が伝わっている模様。待ち時間というか、列は約1K程度続く。
これをみて、携行缶で60L持っていったガソリンの20Lを給油。福島県では下車せず、高速で通過。
予想通り上りの東北自動車道は、下りとは異なり、ガソリン補給は緊急車両の行列になっていた。途中PAでさらに20L補給。
午後2時半羽田空港到着。地震発生との報あり。宿舎のあった登米で震度4とのこと。情勢は刻々変わっている模様。同ホテルで継続的に宿泊可能かチェックはその都度必要。石巻から羽田までの所要時間は行きがほぼ10時間、帰りがほぼ7時間であった。
結果的に我々はまだ運が良かったほうかも知れない。ほぼ予定通り動けたし、この日まで寒さは愛媛の真冬程度で、路面の凍結・降雪はなかった。(スタッドレスははいていったが。)他のほぼ同行程のグループは我々のほぼ2倍の行程を必要としたとも聞いた。
松山に着くと、愛媛新聞の取材を受けた。状況は日ごとに変わり、被災地ごとでも変わっていると説明。


全期間を通じての感想
○準備においては直前に目的地の変更も起こりうるが、野宿は救護班の体力を消耗するだけで望ましくない。また宿舎が確保できれば、そこに別ルートでの補給も可能になり、携行持参品を少なくすることで医薬品関係の持参が量的にも質的にも改善する。
○地図は必携。できれば詳細な市街地図もあったほうがよい。事前に現地の状況をできるだけ詳細に調べておく必要があるが、現地では通行止め等もあり、柔軟な対応が必要。
○投薬期間に関しては、常時、使用されている薬はニーズとして長期間投与を望まれる。しかし、希望に沿う形をとるとすぐに薬が欠乏。そうかといって短期間だと患者さんの数が膨大になり対応困難。3-4日程度が妥当と思われる。
○持参薬として。日常的に服用している薬も内容が不明確な人が多い。服用薬がわかる場合はそのまま継続する方がリスクが低いと思われ、できるだけ取りそろえたほうがよい。現場では市販薬も混在しており代用できる場合は代用。基本的に薬は持参するより、現地調達ができるようにしたほうがよい。薬の辞書があったほうがよい。想像以上に多種類に及ぶ。
○薬剤変更に伴う説明には時間が必要であり、診察室での薬剤整理の為にも担当者(薬剤師)を同伴したほうがよいと思われる。
○急性期でなくとも瓦礫の後始末を行なっている時期は外科医も必要。また、傷口の小さい傷を我慢しており重症化している場合も多い。
○医師だけのボランティア参加というのは難しい。チームでなければ極めて非効率的。
○DMATは一日ごとに派遣先が変わっていた模様。
○引き継ぎにはカルテ様のものが必要これはDMATも含め統一化した形式を検討しておいた方がよいと思われる。
今回我々はカーボン複写で一枚を本人に渡す方式の簡易型カルテを使用した。2日にわたり診察した人の半分ぐらいの人はこれを持ってきてくれていた。避難所で数週間過ごす可能性のある場合はこのようなカルテの継続による情報の伝達が必要である。ただこの方式にも課題もあり、今後どうするかは検討課題であろう。
○トリアージカードは使用しなかった。それより搬送できる状態であれば搬送した方が効率的と思われた。



最後に派遣に当たり随伴してくださった、松本さん・石田さん・安藤さん、ご尽力いただいた愛媛県医師会、愛媛県庁、関係諸氏一同に深く感謝いたします。